ザルツブルクの歴史

町の名前は『塩の町』という意味である。町を貫流する川の名前はザルツァッハ川『塩の川』という。
はるかBC1000年ごろから、ザルツブルクの周辺の山の岩塩の層は、ケルト人によって掘り出されていた。その塩が育んだ文化をハルシュタット文化という。
ザルツブルクは、ヨーロッパでも最も早い時期に文化に目覚めたのである。
 下ってローマ時代、この町はやはり塩の集散地として重要視され、ユウァウムという名前を与えられた。
現在の川の左岸の旧市街にローマの町はあった。
 ローマの町の廃墟に、7世紀末になって聖ペーター修道院が建設され、それを囲む町にザルツァッハブルク、短縮してザルツブルクの起源である。
 9世紀には町に大司教座が置かれる。そして、川を見下ろす左岸の山の上にホーエンザルツブルクの砦の建設が始まったのは1077年のことである。
その下の町は塩ばかりでなく、さまざまな物資の中継貿易で栄え、とりでの増改築も時代を追って押し進められた。
 町の様相が一変し、現在のシルエットが完成するのは17世紀後半のバロック期のことである。
この時期、歴代の司教は建築熱に取り付かれ、イタリア仕込みの建築家が次々に壮大なドームや宮殿を造り上げていった。
モーツァルトが生まれたのは、すでにこの建築熱が一段落した1756年のことである。
 ザルツブルクはナポレオンによって司教座を廃され、オーストリアに編入される。
町は1920年にザルツブルク音楽祭をスタートさせ、世界的な名声を獲得した。