ウィーンの歴史

 ウィーンという名前は、ケルト人が作ったウィンドボナという名前に由来する。
この名前は、紀元100年ごろにやってきた次の支配者であるローマ人も気に入ったのか、そのまま引き継がれる。
そして、東方の守りを固める重要な基地となるがローマの滅亡とともに、400年ごろに打ち捨てられ、以後700年ほど歴史から姿を消す。

 そのウィーンが蘇るのは1135年、バーベンベルク家の支配がこの地に及んでからである。
この時の支配者であるレオポルト3世はウィーンのパトロンとなる。
そして、56年にはその子ハインリヒ2世が居城を移し、町の再出発が始まった。
この時の居城はアム・ホーフにあり、現在でも遺跡が残っている。

 ハーベンベルク家のもとで、ウィーンは栄える。
1221年、関税特権を獲得し、以後、東と南への貨物はウィーンに一時留められ、その税収は宝の山となる。
その富を背景に、自由帝国都市にまで登りつめる。
しかし、ハーベンベルク家の世継ぎが絶えた所でボヘミア王オタカルの侵入を許し、さらに、それを撃破してハプスブルク家ルドルフ1世が新たな主となる。
この時期にすでに、ウィーンは外壁をめぐらせた要塞都市となり、1858年までその規模を維持する。
そして、ハプスブルク家の支配のもとで14世紀にはシュテファン大聖堂やウィーン大学が完成し、町として一人前になっていく。
町は城壁外にも居住区を広げ、豊かな富を背景に、自由の気風があふれ、市民生活を享受できた。

 そのウィーンにのしかかってきた2つの脅威がペストトルコである。
ペストは1678年にウィーンに襲いかかり、約1年間に渡って猛威を振るう。
ペストが去り、グラーベンにペスト撃退の記念碑を建てたと思うまもなく、ウィーンは今度は20万人を超えるトルコの軍隊に包囲されてしまう。
城壁内には市民を含めて2万4000人(うち守備隊は4000人)しかいない。
フランスのルイ14世はウィーンが異教徒の手に落ちるのを待っている。
三十年戦争で疲れきったドイツには援軍を送り出す余力はない。
それを救ったのはポーランド王のソビエスキだった。
トルコ軍のすきを突いた急襲で、トルコ軍はあっという間に散を乱して敗走を始める。ウィーンの教会ではソビエスキ王に感謝するため、現在でもポーランド語でミサを行っている所がある。

 二つの脅威が取り払われたウィーンはまるで反動のように、一気にバロック・ロココの花が咲く。
そしてマリア・テレジアの時代へとつながっていった。その治世の1750年には人口43万人にも達する。
建築、絵画、音楽、彫刻、演劇などの諸分野でウィーン的なものが誕生するのもこの時期である。

 ウィーン的ということをここで整理しておこう。
ひとつはスラブとゲルマン、それにラテンの混交した文化であるということだ。
現代の言葉で言えばコスモポリタン的ということになる。
ドイツ語以外にハンガリー語、チェコ語、さらにイタリア語、スペイン語、フランス語などがこの町では普通に話されていた。
もうひとつのウィーン的な要素は、その文化が宮廷の中だけに留まらず町の中にも浸透していったということだろう。
音楽は宮廷だけではなくて、町中に流れていたのだ。

 ウィーン的な風土はこのバロック期に生まれて19世紀に受け継がれ、たとえば音楽で言えば、貴族も民衆も一緒に楽しめるようなオペレッタや、ワルツを生み出す。
御者と、その操る馬車に乗った皇帝が同じ曲を鼻歌で歌っているような町がウィーンなのだ。

 ウィーンが城壁の衣を脱ぎ捨てるのは1858年のことである。
城壁の跡に広壮なリング通りが建設され、さらにそれを飾るべく壮麗なネオクラシック様式の建物郡が建設された。
そして、世紀末を迎え、ハプスブルク家の没落の予感の中で、またしても、ウィーンは学芸のあらゆる分野で、極めてウィーン的な花を咲かせることになる。

 第1次世界大戦の敗戦はハプスブルク家の支配を終了させた。
そして第2次世界大戦を経て、ウィーンは永世中立国の首都となり、ニューヨーク、ジュネーヴに次いで国連本部の置かれる国際都市に脱皮した。
しかし、ウィーンの町に濃く刷り込まれたハプスブルク家の都という要素は、依然としてこの町に香気を添えているのである。


【ハプスブルク家・家系図】

マリア・テレジアとマリー・アントワネット


アンドレアス・メラーが描いた
9歳のマリア・テレジア


14歳のマリー・アントワネット