シェーンブルン宮殿

  宮殿の説明
  宮殿内
  宮殿正面

 
 シェーンブルン宮殿から庭園を眺める。

+シェーンブルン宮殿+

シェーンブルンは、ウィーンを訪ねた人の多くが足を運ぶ離宮である。
1619年頃、狩猟の途中にこの地に足を踏み入れたハプスブルク家の皇帝マティアス(当時62歳)が、良質の湧き水を発見し、
「おお、美しき泉よ。」
と言ったところから、この名前がついた。シェーンは美しい、ブルンネンは泉である。
1569年、皇帝マクシミリアン2世がこの地を購入し、1686年になってマリア・アントニアの曾祖父である皇帝レオポルト1世がフィッシャー・フォン・エアラッハに命じて宮殿を建設させた。
エアラッハは、かのジャン・ロレンツォ・ベルニーニの元、イタリアの工房で修行した建築家である。
レオポルト1世がこの人物を起用したのは、彼が当時を代表する建築界の巨匠であったからだと言われており、ベルニーニから建築を学んだエアラッハを使うことで、ヴェルサイユを凌駕するような宮殿を建てたいと願ったのではないか。
歴史書には、レオポルト1世は、ルイ14世の建てたヴェルサイユ宮殿のような宮殿を目指したのだと書かれている。
シェーンブルンの建築に関しては、設計図はできたが資金が足りないというのが当時の状況であった。
そのため、途中で工事が中断していたものを、引き継いで完成させたマリア・アントニアの母、マリア・テレジアである。
現在のシェーンブルンは、マリア・テレジア色といわれる黄色であるが、当初はくすんだピンクであり、それをマリア・テレジアが今の色に塗り直させたといわれている。
理由は、彼女の夫フランツ・シュテファンが錬金術に凝っており、
「金色が美しくてよいのではないか。」
と言ったためである。
そのままでいけば、金閣寺まがいの宮殿が誕生するはずだったが、倹約家のマリア・テレジアは、夫に黄色で我慢させたのだった。
シェーンブルンは、夏の離宮として使われ、暖かい年には3月下旬から11月初旬まで、寒い年でも4月中旬から10月下旬までは女帝一家が投宿していたということである。
(『マリー・アントワネットの生涯』 藤本ひとみ より抜粋)

宮殿内

←青のサロン
この部屋もマリア・テレジアの中国趣味を大きく反映している。
楕円と四角のブルーのパネルには、中国の日常生活が描かれている。

宮殿正面