Austria
『オーストリア』と言えば、音楽の都『ウィーン』がある国です。
私は、学生の頃に研修でオーストリアに行ってきました。


成田空港から12時間かけて、ウィーンに到着♪

Vienna  ウィーンの歴史

【ウィーンの歴史】にもありましたが、ハプスブルク家の栄華をそのままに知ることができるホーフブルク(王宮)

王宮を東に出るとミヒャエル広場があり、そこにはミヒャエル教会とミヒャエル門がある。

+ミヒャエル門+

グラーベンから王宮に向かうこの通りはコールマルクトと呼ばれ、ウィーン菓子で有名なカフェ『デーメル』(写真右)などを始めとして、高級店、有名店が並んでいる。

コールマルクト方面から見たホーフブルクの門。(写真正面)
華麗なドームは高さが37mもあり、左右に円弧を描く翼を伸ばしている。
上部の彫刻は知恵と正義と力の寓意像である。
この門は19世紀の末に完成したものだ。

コールマルクト通りを北東に進むと、グラーベン通りに突き当たる。
グラーベンは、最初のウィーンの町の外壁の濠(グラーベン)にあたるところである。現在では、ほとんど広場と言ってもいいほどのこの通りには、夏には野外カフェが店を広げる。
広場の中央には、三位一体記念碑がある。一般的にはペスト記念碑と言った方が通りはよい。

+三位一体記念碑+

1678年から9年にかけてウィーンを襲ったペストが去ったのを感謝して立てた記念碑で、記念碑にぬかづいているのは奉納したレオポルト1世である。
フィッシャー・フォン・エアラッハなど当時最高の芸術家達の手が掛かっている。
この記念碑はそっくり模倣されてオーストリア各地の町に無数に建設されている。

そのまま東へ進んで行くとシュテファン広場があり、シュテファン大聖堂がある。

+シュテファン大聖堂+

この聖堂は、初代ハンガリー王シュテファン(イシュトヴァン)に献じられ、同時にキリスト教の最初の殉教者である聖シュテファン(ステパノ)を守護聖人としている。
最初、小さなロマネスク教会として1147年に建設された教会は、その後、14世紀にハプスブルク家のルドルフ4世の手で、大々的にゴシック様式の大教会へと脱皮させられることになる。
ルドルフ4世はおかげで『建設公』と呼ばれることになった。
そして、その完成とともに、ウィーンは司教座に昇格し、シュテファン教会は大聖堂となったのである。
北塔の下にあるカタコンベにはハプスブルク歴代皇帝の内臓が安置されている。

シュテファンだと思って撮ったんだけど、ちょっと違ったみたい。でも、こんな感じ♪

シュテファン大聖堂のすぐ裏手にあるのは、フィガロハウス

+フィガロハウス+

ウィーンにおける唯一のモーツァルトの事績が残るフィガロハウスは、その名の通りモーツァルトが『フィガロの結婚』を作曲した家であり、いわばモーツァルトが最も脂の乗り切った時期を過ごした家である。
まだ若いベートーヴェンがモーツァルトの前でピアノの腕を披露したのもここである。

ちょっとシュテファン大聖堂まで戻って、ケルントナー通りを南へずっと歩いて行くと、国立オペラ座がある。(ホーフブルク(王宮)の南東に位置する。)

+国立オペラ座+

ネオルネッサンス様式の壮麗な国立オペラ劇場は、ウィーンで最も華やかな音楽社交場である。
マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ベーム、カラヤンといった不朽の指揮者たちが、キラ星のような歌手と、最高のアンサンブルを誇るウィーン・フィルハーモニーを指揮した。
こけら落しの演目は1869年、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』であった。

ケルントナー通りは、車を締め出し、季節と時間を問わず世界中からの観光客でごった返している。
音楽の町ウィーンらしく、何組もの辻音楽師がさまざまな趣向で道行く人を楽しませる。

ここから、リングに沿って進んで行きます。
*リングとは・・・ホーフブルク(王宮)の周りを囲むように作られている道(通り)。
          ドナウ運河より時計回りに、シュトゥーベンリング、パークリング、
          シューベルトリング、オーパーリング...ショッテンリングという様に、
          1本の道の中に少しずつ名前を変えていろんな通りが繋がっています。

オーパーリング通りに出て西へ進むと、ウィーンが世界に誇る美術史上の名作が揃っている美術史美術館がある。(ホーフブルク(王宮)の南西に位置する。)

+美術史美術館+

ウィーンの城壁を取り払って、新しい町を造り上げようという計画の一環として、ハプスブルクの皇帝たちの美術コレクションを展示するための大規模な美術館の建設が計画された。
1866年の設計コンペを勝ち抜いたのはカール・ハーゼナウアーの案だった。
それに、ドイツの有名な建築家ゴットフリート・フォン・ゼンパーが改変を加えてできあがったのがこの美術史美術館である。
「リング様式」とも呼ばれる外観にはゼンパーの手が入っているが、内装はほぼハーゼナウアーの案のままである。
この美術館のコレクションはハプスブルク家の富と権力の広がりをそのまま示すものであり、世界で最も重要な美術館のひとつに数えられる。

館内展示品

マリア・テレジア広場を隔てて、全く対象形に建つのが自然史博物館である。

ここから時計回りにリングを回ると、最初の目立つ建物が国会議事堂である。

+国会議事堂+

ギリシア・ルネッサンス様式の建物の設計は、楽友協会のホールなどを手掛けたテオフィル・ハンセンにより、完成は1883年のことである。
また、正面の巨大な噴水は、1902年にカール・クンダーンマンが製作したものである。

その少し先のウィーン大学の向かい側に小さな広場があり、その近くに白っぽいアパートのような建物が建っている。この建物の中にベートーヴェンハウスがある。

+ベートーヴェンハウス+

狭い階段を上がっていくと、ベートーヴェンが住んでいた部屋に入る。
現在は、記念館となっている。
ベートーヴェンはここで交響曲第5番『運命』を作曲。

この先、リング外のコースは1本の線で結ぶようなコースの設定ができない。
いずれも、リング上の起点から市電や地下鉄、あるいはタクシーなどを使って中心から放射状に延びるルートをたどることになる。

ユーゲントシュティルの華麗な建築で有名なカールスプラッツ駅から、地下鉄で10分ほどでシェーンブルン宮殿に出る。

リングの南東の端のシュヴァルツェンベルク広場から、南東に向かってまっすぐ延びるレンヴェーク。
レンヴェークを走る71番の市電に乗っていると、やがて広大なウィーン中央墓地に到着する。
ちなみに、映画「第三の男」に出てくる墓地はここです。

リングの北西のショッテンリングから市電のD番に乗ると、交響曲第6番『田園』を作曲したハイリゲンシュタットの中心部に行くことができる。
ベートーヴェンが聴覚を失って、絶望して書いたハイリゲンシュタットの遺書によって、この地名は広く知られている。
ここにはベートーヴェンが遺書をしたためた家を始め、ベートーヴェンの散歩道など、楽聖ゆかりの場所が多い。

そして、ここはホイリゲの本場である。

 

+ホイリゲ+

ホイリゲとは、「今年できたワイン」という意味で主に白ワインです。また、「ホイリゲを飲ませる居酒屋」の意味もあります。
玄関先では店のマスターと民族衣装で着飾ったウェートレスが客を出迎え、華やかさを演出しています。
ウィーンの周辺およぴ郊外に多い庶民的な居酒屋で、家庭的な料理が出されています。料理だけはカウンターで注文し、自分で運ぶセルフサービスが一般的です。
そして、ワインだけでなくシュランメルというウィーン民謡の生演奏を、アコーディオンなどで聞かせてくるのが特徴です。

ウィーンの森の斜面を利用して栽培されたぶどうから造られた当年もののワインを飲ませる居酒屋が軒を並べ、中からは賑やかな『シュランメル』と呼ばれる音楽が聞こえてくる一帯である。

 ぶどう畑から眺めたウィーンの町

Salzburg  ザルツブルクの歴史

聖ペーター教区教会の北側には、巨大なドームがある。
ドーム内にある付属博物館も見逃せない。

もう少し北へ進むとザルツァッハ川に突き当たる。

 +ザルツァッハ川+

ゲトライデ通りの中ほどから北の川沿いに出ると、小さな歩行者専用の橋が架かっている。これがマカルト橋である。
この橋を渡るか、あるいは川沿いを西に向かって散歩してもう一つ先の歩行者専用のミュルナー橋を渡るかは自由である。

渡った所にミラベル宮殿がある。

+ミラベル宮殿+

1612年、ザルツブルクの大司教、ヴォルフ・ディートリヒが、彼の愛人サローメ・アルトのために、ザルツァッハ川の左岸に建設した城館がミラベル宮殿である。
この館はその後、18世紀の初頭にルーカス・フォン・ヒルデブラントによって大幅に手を加えられ、さらに19世紀の初頭の火災で破壊された後、ペーター・フォン・ノビーレによって改修されている。
だから、建設当時の遺構はほとんど残っていないが、大司教と愛人の愛の館という伝説はミラベル宮殿の上に依然として覆いかぶさっている。
現在はザルツブルクの市長がこの宮殿を使用していて、内部の見学はできないが、宮殿内の豪華なバロック装飾で飾られたマルモル(大理石)の間では、しばしば室内楽の演奏会が開かれる。また、結婚式の場としてもポピュラーだ。

+ミラベル庭園+

ミラベル宮殿の庭園の設計をしたのは、高名なバロックの建築家であるフィッシャー・フォン・エアラッハである。
1690年に完成したこの庭園は、小さいながらバロックの庭園の一つの典型とされている。

番外編 ・・・ オペラ『魔笛』の写真や、お気に入り写真、お買い物の写真など。

参考文献 : JTB 『街物語 ウィーン・プラハ・ブダペスト』